近世編 第1章 第1節 近世の始まり 島津氏の琉球侵攻(町誌363〜370ページ)
近世編 第1章 第1節 近世の始まり 島津氏の琉球侵攻(町誌363〜370ページ)
16世紀末、天下統一を果たした豊臣秀吉は、島津氏に対して琉球とともに朝鮮侵攻の軍役(1万5千人)を負担するよう命じ、さらに琉球を島津氏の与力(配下)とした。島津氏は、琉球を一律に豊臣政権の支配下にあると見なしたことから、琉球に対し出兵の代わりに兵糧10か月分等の負担を要求した。慶長14年(1609)2月26日、島津家久・義久・義弘の連名で家臣団に対し「琉球渡海軍法度之条々」を発布した。3月4日、樺山久高を大将とする島津軍約3千人が軍船70~100艘余に乗り込み、山川港を出帆した。
奄美大島、徳之島での戦闘を経て、3月24日に島津軍本隊が沖永良部島へ向け進航した。「琉球渡海日々記」によると、3月21日に樺山隊10艘が手漕ぎで先発し、24日早朝に徳之島の亀津を出港、夕暮れ時に沖永良部島の島崎に着いたとある。「琉球入ノ記」では、降伏の使者として僧を遣わして降伏を申し出たとされる。
島内各地に残る「馬鹿尻」という不名誉な地名伝承について、琉球王国統治時代の文書では地名は全て平仮名表記であった。侵攻後、検地帳に地名が記録される薩摩藩政時代になり「馬鹿村」の差別的漢字表記をあてられたことから「馬鹿者共」伝説が生まれ、侵攻から約100年後に作成された「琉球入ノ記」に「馬鹿尻」と記録されたと考えられる。また、島唄の「アンマメグァ」は、島津軍が来襲した時の状況を呪ったものと考えられている。4月2日、樺山久高らは首里城に入城し、王府要人を人質として伴い薩摩へ凱旋した。







